洟垂虚白個展 に寄せて

洟垂虚白個展 に寄せて

会場:「ギャラリーいちょうの木(壁面50m程)」八王子市千人町

期日:2023年1月3日~1月8日

 

少年時代

日本が戦争に敗れ、まもない頃、全く戦後の傷跡も残らない新潟の山深い寒村に生を受けました(昭和24年・下田村)。日本中の大人達が戦後復興に汗を流しておりました。

活気ある時代だった様に思われます。【そこに生きた個々の心の内は分かりませんが】

遠く街からの伝えられる、復興の甘くかぐわしい匂いが山猿の様な少年の感性を刺激しない訳がありません。またこの頃アメリカ文化、ヨーロッパ文化等が称賛され、学校教育中に多くの取り入れられていた様な気がします。古来からの日本文化は押しのけられ教室の片隅に追いやられていったのではないでしょうか、私も線香臭いものには一切触れようともしませんでした。

 

青年時代

数年後、東京の街を絵の道具を担ぎ闊歩する私がおりました。その頃の東京の街にはアトリエが点在し学ぶ場に事欠きませんでした。そこでデッサンを学び、多くの友との出会いもありました。しかし、ねぐらな青年時代でした。「人は必ず死ぬと言うのになぜい生きるのか!」「何のため生きていくのか!」そんな思いが出来の悪い頭の中を常に巡り回っていました。仕事なんぞはそっちのけで、絵を描く事が唯一の救いでした。良くぞ生き延びたものぞ!人生はアット言う間です。あれから既に50年の歳月が流れ去りました。かろうじて絵は描きつずける事は出来ました。

 

宿命的出会い

今から3年程前になりますが、宿命的な出会いがありました。高森顕徹先生著『なぜ生きる』・『歎異抄をひらく』それに親鸞聖人のご著書。約3年間、精神も肉体もがんじがらみにされました(その間ほとんど絵も描けない時が続きました)。それらのご著書には私が悩み苦しみ続けて来た事の解答がぎっしりと詰まっていたからでしょう。仏教の教えの深さ、難しい仏教用語の理解等、多くの先生方にもご指導を受け学んでおります。

自分は20年程、キリスト教会に通っていましたが、教会は完全に辞め、仏教の深みにのめり込んでおります。宗教にっとて一番の目的は『魂の救い』に有ると思います。20年通った教会では果たすことが出来ませんでした。

 

信心の必要性

親鸞聖人の『正信偈』の中にこんな箇所が有ります。

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」― 【釈尊がこの世お出ましになられたのは、唯一つ阿弥陀仏の本願を説かんためなり】

釈尊(釈迦仏)と阿弥陀仏の違いを少し説明致します。釈迦仏はこの地球上に現れた唯一人仏様、釈迦仏の様な仏様はこの宇宙にはガンジス川の砂の数程におられるとの事です。

それらの仏を諸仏(釈迦仏のその一人)と言います。

阿弥陀仏(如来)は三世十方(全宇宙)の諸仏の本師・本仏(王様のごとき方)なのです。阿弥陀仏は我々、人間のすがた(心)を見られ、煩悩具足・罪悪深重なものと見られ、どんな人をも絶対の幸福に救って見せる、そしてその約束にご自身の命を掛けて誓われたのです【仏願の生起・本末】。諸仏方も試みたのですが、人間の煩悩具足・罪悪深重の姿に驚き恐れ、その場を逃げてしまわれたのです。【お経に記されてます】

仏教の『魂の救い』は、ほかの宗教と全く違うところですが、「生きている今の救い」なのです。そして今の救いが変わることなく継続するのです。【絶対の幸福】

他の宗教は死んだら助ける。キリストが再臨(あるかどうかわからない)されたら助ける。

こんな確信の無いものに自身の魂を委ねられますか!

親鸞聖人の一枚看板『平生業成』

― 生きている今、人生の大事業(魂の救い)を達成する目的が有り、往生一定の大安心を頂くこと、何を於いても優先すべし。当に生きている今の救いなのです。

 

大半の人々(仏教を知らない人)は、人の生を、一生の問題と考えるこしか出来ていません。仏教では多生【過去生・現在生・未来生】の問題として考えるのです。

自分の魂の奥底に阿頼耶識(arayasiki)という世界があって、生きていく時に創りだす業力【善業力・悪業力】が阿頼耶識に蓄積され、その業力によって次の新たな生命活動(人間とは限らない)が生み出されるのです。このことを知る事で、より命の深さ・尊さを理解することが出来るのではないでしょうか!

 

絵描きとして

絵を描くとは、いつも悩むところなのですが、やはり思想の問題です。

どんな行為も同じように、その行為の目的・目指すところが曖昧ものだとしたら、行為に集中はできないし、力も出ません。

人生の目的がはっつきりしなければ、いかなる行為も曖昧なものになってしまいます。

親鸞聖人が29才で弥陀の本願に救い取られ、生き方が火が付いた様に変わられたではありませんか!あの当時(約800年前)、仏教界にあって「肉食妻帯」を堂々と決行されました。よほど思想に確信が無ければ、この様な決断はなされ様がなかったはずです。

キャンバスの上に絵の具こねくり回し、仕上げたものを額に入れたものが絵では無い、頭が描くのであり、魂が描き上げるものなのです。確信の思想が無ければ絵は描けない。

 

どんな展覧会になるのやら、過去の恥ずかしい己との対面する事とにもなるでしょう。しかし、それはそれで感謝して対面するつもりです。私が一番に楽しめる個展となることでしょう。

 

最後に親鸞聖人の詩で持って締めくくります。

『生死の苦海ほとりなし    解【人生(生死)の苦しみに限りがない

久し沈める我等をば       長く苦しみもだいてきた我々を

弥陀弘誓の船のみぞ       阿弥陀仏の広く深い誓いの船だけが

乗せて必ず渡しけり』      乗せて必ず極楽浄土まで渡して下さる】

2022年12月     洟垂虚白 記

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